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オウム真理教を改めて考える一日

2018年7月6日(金)朝8時、東京拘置所においてオウム真理教元代表麻原彰晃こと松本智津夫(63歳)死刑囚の死刑が執行された。また教団元幹部6人も同日相次いで死刑執行となった。この速報は会社にいてスマホに飛び込んできた。画面に流れるテキストを読んで、ようやくという思いが頭をよぎった。今年3月に一部死刑囚が移送されていたのでその準備は進めていたのであろうが、いつも死刑執行は突然やってくる。執行により罪を償ったため、以後報道では元死刑囚という扱いになる。
 
オウム真理教創成期は大学生であった。当時、学校近くに貼られている様々なポスターの中にオウム関連があったと記憶している。もっとも、主に麻雀とパソコンに強い関心を持っていたわたしは、理系であっても関わることはなかった。
 
1989年(平成元年)8月に宗教法人格を得ると、その2か月後には坂本堤弁護士一家殺害事件を起こしている。そして1995年(平成7年)3月20日に日本いや世界を震撼させた地下鉄サリン事件を引き起こした。来年で終わる平成のうちに処罰を済ませておきたかったのかもしれない。
 
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改めて事件を振り返るためいくつかの現場を訪ねてみた。未曽有の水害に見舞われている西日本エリアとは対照的な暑い夏日の日曜日であった。
 
亀戸 教団新東京総本部
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1988年11月に開設、宗教法人として登記されている本部は亀戸にあった。現在は別の社屋が建っており当時の面影はない。1993年に2回にわたってかつての総本部屋上から炭疽菌を噴霧させる生物兵器テロを行ったがその効果はなかった。教団が対外的に行った初めてのテロ活動だった。
 
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あれから25年、今もこの場所の向かいにあるミニピアゴ亀戸2丁目店の裏手にあるポストにはオウムに対するポスティング禁止の張り紙がしてあった。
 
東京拘置所
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亀戸の教団本部から約10kmの位置に東京拘置所はある。*の形をした中央管理棟が特徴的だ。13時過ぎに到着すると報道陣の陣地取りがされていた。14時過ぎに麻原四女代理人が遺体引き取りの申請をしに来る様子を報道で知ったのでそのための準備だったのかと合点がいった。
 
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東京拘置所のすぐ前に公園が設置されていた。バックに見える拘置所の地下室に刑場があることを考えると何か違和感を感じる。
 
マハーポーシャ
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1992年に設立されたDOS/Vパソコンのショップであり、秋葉原では屋上にリバティの看板があるビルで営業されていた。わたしは当時名古屋にいて、大須アメ横で白装束の怪しげな店員を抱える格安PCショップであったことはよく覚えている。地下鉄サリン事件の年に強制捜査ですべてのショップは閉店した。その年の11月に大イベントとなったWindows 95の発売にマハーポーシャは参加できなかった。
 
南青山東京総本部
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1992年12月東京総本部を南青山に開設した。同時にマハーポーシャの本社でもあった。この時に亀戸は登記を移さないまま「新」を冠につけるようになった。この場所で1995年4月村井秀夫刺殺事件が報道陣の目の前で起きた。1985年の豊田商事会長刺殺事件を彷彿させるカメラが回る中で起きた事件であった。
 
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建物は2015年5月に取り壊され、3年建ってもまだ更地のまま放置されていた。
 
目黒公証役場
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かつて品川区上大崎3丁目にあった目黒公証役場の入るビルを所有する女性が入信したのをきっかけに、兄である目黒公証役場仮谷事務長が身代わりとなって拉致殺害された。地下鉄サリン事件を起こすわずか3週間前の出来事であった。これは現在の品川区上大崎2丁目にある目黒公証役場である。
 
聖路加国際病院
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最後に訪れたのが築地駅からわずか500mの位置にある聖路加国際病院(せいるかこくさいびょういん)である。とくに築地駅の映像が多くメディアに流れたこともあり、故日野原重明院長の英断により数多くの被害者を受け入れた病院である。地下鉄サリン事件で被害者を救護した医師は今、何を思うのか
 
人間はとかく集団になると時として想像だにしない状態になる。ナチス大日本帝国陸軍日本赤軍オウム真理教、あるひとつの核を中心とした制御不能な行動が歴史に刻まれている。我々の記憶が薄れるころ、また歴史は繰り返すのかもしれない。