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四十八の手習い二日目(与那国周遊その1)

与那国の朝は早い。というか、わたしが早起きなだけ。5時半には起きて身支度をする。洗顔を済ませようとするが場所がわからない。すでに起きていたオーナーに聞くと、とくに用意していないので流し台を使ってくれとのこと。洗顔と髭剃りと歯磨きだけなのでそれで結構。
部屋に戻って昨日用意した朝食を済ませた。オーナーには原付バイクをお借りして、7時出発10時戻りと伝えた。まだちょっと早いので6時に散歩に出た。バイクで走るだけではなく、自分の足でも最西端を味わってみたかった。
 
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これが宿泊した場所、あれ?おじーの宿になってる。確か楽天トラベルに登録されている宿名はおじぃーの宿。この辺のアバウトさがいいですな。うっすらと文具となっているのは、ここが以前文具店だったということ。オーナーに聞くと、役場が近いのでその辺の需要があったが経費削減で注文が入らなくなって廃業したとのこと。そこを居抜きで借り受けて宿にしている。
 
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なるほど、歩いてすぐに与那国町役場が現れた。消防も兼ねているのか。
 

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こんな町並みが続く。沖縄本島と違って屋根の上にシーサーを置いている家はない。下にも見当たらなかった。40分近く歩いていたが、島民に会うことはほとんどなかった。島国の朝は遅い?
 
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さらに歩いているとアンテナがあった。わたしが利用するドコモの電波状況がよくないので、やはり沖縄はauかと思っているとほどなくドコモも現れて安心した。ドコモの左に見えるアンテナはウィルコムになる。ソフトバンクは近くで見つけられなかった。
 

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歩いているといたるところで民家の壁にこのような紙が貼ってある。何回も重ね貼りしている跡もある。近寄って見ると、その家で亡くなった人の案内だった。告別の日時の案内なのだが、興味深いのは一族すべての名前が列記されている。どの紙にも大体40人ぐらいは書いてある。ファミリーの結束は強いようだ。
 
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ダイビングのショップがあった。そろそろ海が近いのだろう。だが今回も海に入る気はまったくない。
 

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宿を出て歩くこと20分、ようやく海に出た。振り返るとちょうど朝陽が顔を出すところであった。
 
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最西端で見る東からのご来光だ。今日9月22日は秋分の日ではないか。昼と夜が同じ長さになる、まさにその昼の始まりが今だ。
 
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時間も時間なので宿に戻ることにする。気になったのがこの表札。いたるところに取り付けられている。これは何だ?あとで宿のオーナーに聞くと一種の魔よけだという。石敢當(いしがんどう)、と読むらしく、中国発祥で日本では沖縄や鹿児島で見られるらしい。
 
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宿に戻るとバイクが用意されていた。今回の友はベージュのスクーター。実は先月までは500円でレンタルしていたものを9月から無料にしたらしい。オーナーはリムジンを使ってもと言ってくれたが、直接風を感じたいのと、バイクでないと入っていけないような場所もあるだろうからそのままバイクをお借りした。時間がなかったらカギを挿しっ放しにして空港に乗り捨てていってくれてもいいと言う。どうせ島からは出られないんだから、誰も盗まないという。そりゃそうだ
 

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今回のバイクはちゃんとスピードメーターが作動している。昨年の波照間で借りたバイクに比べると無料のくせにちゃんと整備されている。
先ほど徒歩で来た港に再度来てみた。この船は今は使われていない観覧船のようだ。船底から海底を見れるようになっている。
 
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今回は島を左回りに一周する。まずは空港が見えてきた。まだ朝7時過ぎなのでもちろん空港は閉まっていて誰もいない。
 
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これは空港出口すぐにある看板。この後いたるところで自衛隊誘致の賛成・反対を見ることになる。この件に関して島民は二分しているようだ。観光客もそれほど多くない日本の最西端。町に落ちるお金としての自衛隊賛成派と、それによる環境破壊や台湾など近隣諸国との摩擦を気にする派で分断している。
 

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ダンヌ浜にある希望の碑、この画面左側にDr.コトーのコトー先生が崖から落ちてケガをした場所があるとのことだったがよくわからなかった。
 

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この日の波は穏やかであった。それにしても、島を一周してスポットで撮影をしていてもほとんど観光客に会うことはない。最西端でようやく一人いたくらいだ。とにかく島にほとんど観光客はいないのだと言う。
 

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さらに走ると最西端の中学校を発見した。島には中学校が2、小学校が3ある。この最西端の久部良中学校の隣にすぐ小学校があるので両者揃って最西端学校を自称できる。
 
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学校のすぐ裏手に次のスポットがあった。中村雅俊が見たら喜ぶような丘である。最西端を逆手にとったネーミングの裏を見ると果たして中学校の卒業生記念品であった。
 

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中学の裏にはもうひとつ久部良バリと呼ばれる岩の谷間がある。
 

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慰霊碑のようなものが立っているのは、かつて島の妊婦をここに集めて岩の谷間を飛ばせて流産あるいは妊婦そのものをむくろにした悲しい言い伝えがある場所だからだ。人頭税という重税が島の人を狂気に走らせたのだろう。
 
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そこから先に進むといよいよ最西端に近づいてくる。ここは島で唯一の久部良漁港で、漁師はほとんどが西部に集まっていると言う。奥に見える船はフェリーよなくに。水・土の10時出航なので今日はあと2時間したら石垣島に向けて出発する準備をしている。飛行機で30分の距離がフェリーだと4時間かかる。
 
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津波の観測装置が設置されている。島を守るためのものなのか、他の離島や本国への津波観測の先兵的な役割なのかはわからない。
 
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漁港の対岸に見えるのが日本最西端だ。あの遠くに見える灯台のふもとに目指すべきものがある。
 
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はやる気持ちを抑えて向かう途中でまたも最西端を発見した。日本最西端の郵便局だ。
 

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これどっちに進むんだ?という感じになるが、実際にはこの写真の上に向かうのが最西端になる。
 

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島でよく獲れるカジキを模したモニュメントが置かれた入り口。ここからは徒歩で上がることになる。
 
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もちろん最西端の西埼灯台になる。
 

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ついに我来たり日本最西端。北南に次ぐ西制覇の瞬間だ。
 
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碑の裏側を見ると、島に2つある中学校共同の記念碑であることがわかる。一番近い都市部は台湾であった。
 

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さらに灯台の足元には太陽の火があった。今から25年前の1987年沖縄国体で採火地に選ばれたのがここ与那国であった。
 
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採火地に選ばれた理由は裏に刻まれていた。
 
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それぞれの位置関係はこんな感じになっている。
 

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最西端をGPSでも確認してみる。おや?まだ西があるではないか。しかし、実際には葦があり断崖になっているためこれ以上行くことはできない。とりあえずここまでで今回の旅の目的は果たした。8時半のことである。まだ島全体の1/4しか終わっていない。10時まで残り一時間半。後半は巻いていく。
 
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バイクの後ろを見るとこれってマフラー?気にせず先を急ごう、動けばいいのだ。