日本は地震、台風と自然災害の多い国である。つい先週もお盆休みを直撃した令和元年台風第10号がテレビを騒がせたばかりだ。そして、1959年9月26日に和歌山県に上陸した伊勢湾台風(昭和34年台風第15号)からまもなく60年を迎える。
ちょうど伊勢湾台風60年企画展が弥富市歴史民俗資料館で開催されているので行ってみることにした。令和の時代になっても破られていない明治維新以降最大の被害者を記録した伊勢湾台風の足跡をたどった。
弥富町役場の石碑は現在新築中の弥富市役所にあったものを移設したものだ。そしてこの資料館を訪ねる人は多い。というのも、弥富は金魚の町であるとともに白文鳥発祥の地でもある。去年5月にここの職員として白文鳥の「ぶんちゃん」が着任してから来館者が増えているという。
職員なのに軟禁されているが、人間の職員に言うとカゴから出して指に乗せてくれる。一日警察署鳥にも就任していたようだ。
二階の特設会場で企画展が開催されていた。壁には当時の地元新聞複写パネルが掲示してある。
当時の生活の様子から被災時、復興までが部屋4面を使って展示されている。
台風で堤防が何か所も決壊してすべてが冠水したまま道路も鉄道も使えない。支援物資も復興資材も運ぶことができない。そこで、一番の幹線である国道1号線を最優先に復旧させるためドラム缶を並べて土を盛り、かさ上げして急ごしらえの道路を完成させた。
蟹江町から弥富市までを一ヶ月半という短期間で完成させた道路は、海の中を走る一本の道筋となってトラックが疾走した。
そのため今もこの辺りの国道1号線はドラム缶一本分高くなっている。あまり不思議に感じたことはなかったが、確かにすべての1号線につながる脇道は上り坂になっている。さすがに今は当時のドラム缶は埋まっていないだろうが、こうしたところからも60年前の情景を感じることができる。
さて、検証がてら外に出たついでに弥富市内にある伊勢湾台風関係の碑を訪ねてみることにする。河川ネットによると弥富市内8か所に碑や塔があるようだ。海寄り、伊勢湾に近いところから回ってみることにする。
向かう途中で通った鍋田支所に当時の被災水位3.9mが記録されたポールがあった。とくにこの鍋田干拓地一帯は被害がひどかったという。
伊勢湾台風10周年記念事業として建立された鍋田神明社の一角に置かれている。この干拓地では133人が犠牲となった。伊勢湾岸自動車道が通り、物流センターが多くなってきたが今でも広大な田園風景は変わらない。
鍋田神明社から東に1kmほど進んだ西尾張中央道西末広交差点の角にある。塔なので弥富市内ではここが一番大きい。書は当時の愛知県知事 桑原幹根による。戦後公選による知事としては最長24年の御仁だった。弥富町(当時)では322名が亡くなっている。
塔の両側には被災時の様子が像として残されている。
敷地の片隅に東日本大震災で亡くなった当時6歳の佐藤愛梨ちゃんをしのぶフランス菊が植えられている。全国に株分けされて育てられた苗は来年石巻市に完成する公園に集結するという。
碑の左には栄南小学校のプールが写っている。児童29名(他に園児6名)が犠牲になった。学校PTAが1年半後に建立した。学校のそばにあり今も生徒を見守っている。これも桑原幹根書だ。
これは犠牲者を弔うものではなく、3ヶ月近く海水に浸かった農地などを長年かけて土地改良を行った記念に作られている。すべての事業が完了するまでに15年近い歳月を要している。書は桑原幹根から代わった仲谷義明知事による。
大藤小学校正門内にあるが、外からでも見える位置に建てられている。亡くなった児童6名の霊を慰めるため1年半後に建立されている。
伊勢湾台風で被害が拡大した最大の原因は高潮である。当時の堤防を軽々と超え、ついには決壊させている。これは復旧工事完了を記念して建てられている。現在は高潮堤防として波返しがついているため波が堤防を越えにくい構造になっている。また、コンクリートで覆われており当時のような土が削られて決壊するということがないようになっている。
台風一過後わずか3ヶ月で建立されている。岸信介総理書である。元々、弥富中学校敷地内にあったが校舎移転に伴い現在は日の出小学校敷地外にあるおみよし松のふもとに移設されている。
弥富市併合前の十四山村では36名が亡くなり7年後、十四山西公園に建設された。書は吉川博村長で、のちに参議院議員を2期務めている。
地球温暖化の影響か天候が今までと違ってきている。今年は梅雨が長く梅雨寒でもあった。そうかと思ったら8月に入って一転猛暑が続く。熱中症で亡くなる方もいる。台風も発生しやすくその規模も大きくなっているような感じだ。備えあればうれいなし。災害は忘れたころに必ずやってくる。肝に銘じたい。